代表について

ふと自分を振り返ってみると、中国人の会社と韓国人の会社に勤務したのちインドに会社を作るなど、これではまるで変人のようだと苦笑いを浮かべざるを得ないところですが、本人は至って常識人のつもりであります。

常識人は起業に向いていないと言われますが本当にその通りで、うわついた話のひとつもなく10年ほどやってまいりました。石の上にも三年という言葉がありますが、それはつまり三年も我慢すればきっと何らかの見返りがあるということを示唆しているのだと思います。では十年ならどんな素晴らしいリワードが与えられるのでしょうか。今のところ、その気配も感じられません。

とはいえ、せっかく(衰退の途にあるとは言え)豊かな先進国に生まれたこの人生ですから、最期の時まで何でも自分のやりたいようにやってみようと思いますので、皆様なにとぞ笑ってお付き合いください。

代表あいさつというよりただのチラ裏(※)でしたね。普通ここには企業理念とかを書くものなんですが。

※チラ裏=「チラシの裏」のこと。「お前のどうでもいい自分語りは誰も興味ないからチラシの裏にでも書いておけ」というような文脈で使われるネットスラング。

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来歴

1976年 北海道室蘭市に生まれる
1995年 国立木更津工業高等専門学校情報工学科を中退
人生の意味を日々問い続ける(日本語訳:ニート)
1997年〜1999年 ソフトブレーン株式会社に勤務
1999年〜2003年 インディゴ株式会社に勤務
2003年 独立し個人事業を開業、同時期より断酒
2008年 個人事業を法人へ改組
初のインド訪問、以降往訪を繰り返す

常識人の黒歴史

1984年頃 小学2年生。父親がこれからはコンピュータの時代だとかなんだとか言って NEC PC-6001mkIISRを買ってくる。BASIC言語(今のと違って行番号のある奴な)を学ぶ。記録メディアはカセットテープ(1200bps)。
1988年頃

Z80のニーモニック表を片手に、アセンブリ言語のコードを紙に書く小学生。OSやテキストエディタの概念なし。

毎月8日発売のベーマガが北海道では2日遅れの10日発売であることに憤りを感じていた。

記録メディアはカセットテープからフロッピーディスク(320kb)へ

1991年頃

N88 DISK BASICのファイルシステムを独自のものに置き換える(設計の基本アイディアはFATと変わらないが、より単純なレイアウトを用いることで高速化していた)など、誰得な研究にあけくれる中学生。

「レジスタが少なすぎる」等と意味不明な言葉を発し、独自の高級アセンブラを開発しようとして手始めに専用スクリーンエディタの開発に着手。もちろん全てアセンブリ言語で記述。アセンブリ言語には横幅が要らないので1行の長さを通常の80文字よりも短くし、画面右側をステータス表示などに使うという野心的な設計。エディタの開発までして頓挫。

1992年頃〜

高専情報工学科に入学(実は勉強嫌いの結果志望校のランクを合格安全圏まで落としたらそこが丁度良かっただけ)。愛用PCは日本IBMの PS/55note(ThinkPadの前身である)。386SX 16MHz, HDD40MB, RAM6MB。当時日本は NEC PC-9801全盛で誰も PC/AT互換機など知らなかったし Windowsも普及していなかったため「ドスブイとかいう変な物を使っている奴」として変わり者扱いされる。バカ共め。

授業で Pascalを学び、高級言語がここまであっさり機械語に変換できてしまうのかとショックを受けつつ「手続き型プログラミング言語」を知る。その後個人的な研究開発には英語の分厚いマニュアルと格闘しつつ Borland Turbo C++ を使用。驚くべきことに当時既にテンプレート・ベースのコンテナクラスライブラリが付属していた(一方で Microsoftのコンパイラはこの時点ではテンプレートにすら対応していなかった)。当時それを使いこなせるほどの知見は欠いたものの、今考えるとポインタが原則16bit幅だったあのMS-DOS時代にそんなものが本当に実用的だったのか興味がわく。

セガファン。愛読書は BEEP!メガドライブ

1993年頃〜

郵便配達のアルバイトで得た資金で 2400bpsのモデムを購入しパソコン通信の世界へ足を踏み入れ、地元の草の根BBSNIFTY-Serveの主に Windowsフォーラムに出入りする(オフ会でよく秀まるお氏などに遊んでもらったのは良い思い出)。これが全ての黒歴史の始まりであり、シマダトモアツ暗黒時代の到来である。shimarinのハンドルネームはこの時から。

当時はIP接続など一部の超エリートにのみ許された特権で、学校はUUCPでのみネットにつながっていた。京大かどこかの FTP-Mailゲートウェイで DOOMの最新版をダウンロードしようと学校の端末から getコマンドをメール送信するも、数日経過後に No such file or directory という心温まる一文の書かれた返信メールが送られて来て心が折れる。

この頃から秋葉原通いも始まる。

X68000用に作られたジョークソフト「ルパン」の Windows版を Turbo C++ for Windowsで作成。但し PC-9801に PCM音源が搭載されかつ全画面サイズの TrueTypeフォントをまともにレンダリングできるようになるのは少し後の話。

パソコン通信界隈でポピュラーだった PC-9801用アニメーションスクリプト言語 MASLを Windowsに移植する。Windowsへの移植は不可能と言われていただけに(実際98のハードウェアに強く依存した一部機能は実装できなかった)、ごく一部のオタクからだけ注目される。

「女のいない現視研」みたいな部(そこに所属していた時に、この先輩によく遊んでもらいました)が学園祭にむけて発行する冊子に「C++によるオブジェクト指向プログラミング」を題材にした記事を寄稿するも、当時高専ごときでは教官含め誰もわからないため記事は存在も知られぬまま闇に消える。というか今もしどこかに残っていたら教えてください。確実に回収して焼却処分します。

愛車 スズキ・ZZ

1996年前後

学校を辞めて地元のPCショップに一時潜伏。MASLの後継 M-MASLを Windowsに移植。M-はマハー(偉大な)の意味だとかなんとか。

パソコン通信からインターネットへ活動がシフトし始める。IP Masquerade(※)を使いたいがため Linux 1.2に手を出し、学校では与えてもらえなかった root権限の威力を欲しいままにする。Slackwareとの長い付き合いが始まる。

※ IP Masqueradeが発明されるまでは NATといえばソースポート番号の変換が行われない1:1のアドレス変換でしかなかった。私の知る限りでは、今NATとして知られるアドレス(とポート)変換が広く利用可能になったのは Linuxの IP Masqueradeが最初である。

1997年頃〜

とある専門分野向けのWindows用パッケージソフトを開発する仕事に従事。

パソコン通信からインターネットへの移行にあたり、KTBBSという当時ポピュラーだった BBSホストプログラムと似た動作をするプログラムを Linux用に開発し STBBSと命名する。当時 Linuxではまだ新しい機能だったマルチスレッド(※)を用いて実装されていた。また、バージョン管理システム(当時Subversionはまだ無いのでCVS)を用いることにより遠隔の協力者と共同で開発作業を行うという当時少なくとも日本では最先端だったであろう開発スタイルをこの時に取り入れていた。

※ pthread的なAPIが提供されていたが中身は Linux固有の clone(2)なるシステムコールで実現されていたと記憶している

なお、STBBSにちなんで1998年に stbbs.net というドメイン名を取得することとなり、STBBS自体の開発は中断するもののドメイン名とだけは長い付き合いとなる。というか一時的に社名にもなる。

この頃までインターネットは電話回線を用いて3分10円の従量料金をNTTに支払って利用する(但し夜中のみ定額になる制度あり)のが普通だったが、INS網を用いた定額のインターネット接続サービスがOCNエコノミーという名前でついに登場し(128kbpsで月額3万円超)、皆より一足早くインターネットへの常時接続を手にする。(一般人向けに常時インターネット接続が提供されるのは2000年のフレッツから)

SMPにこだわり、1998年には Pentium ProのSMP機をわざわざ組み立てて BeOS R3に手出しする。なお一般人がSMPを手にするのは当時よりはるか未来、2005年になってからのことである。

本業とは関係ない所で Webとデータベースについて独自に研究し、社内向けの営業支援ツール(今でいうCRMとかSFAとか呼ばれる類いのもの)を半ば勝手に開発していた。このノウハウが次職につながっていく。

愛車 スズキ・ストリートマジック

1999年頃〜

Web上のサービスを開発する仕事に従事。当初 C++がメインスキルだったので、何の不運かオブジェクトデータベースなるものでサービスを開発するはめになる。ObjectStoreってまだあるのかな。

当時、MySQLの国際化ができていなかったため日本ではオープンソースの RDBMSといえば PostgreSQLだった(皆SRAの石井さんには足を向けて寝られないはず、自分は面識ないけど)。国際化だけでなくトランザクションも既に利用可能だったが、海外では MySQLの方が圧倒的に有名だったのと、追記型アーキテクチャがどうしても運用上不都合で受け入れられないケースも多く日本でも MySQLにその地位を持って行かれた。

自宅に Sunのワークステーション複数台や CISCOのルーターを保有していたのは主にこの頃である。

ある休日に出社して仕事をしていると電話が鳴り「泰蔵は居るかね?」といきなり言われる。どちら様ですかというと「親だけれどね」とのこと。変わったおっちゃんだなあ、休日の会社なんか電話せんと本人の携帯にでも電話すればいいのにと思いつつ、よく考えたらその人はさる大物の父上でもあるということに2秒後くらいに気付き白目をむく。

2003年

普通自動車免許を取得

独立という名目のもと、社会から半分ドロップアウトする。社会に背を向けて生きる対価として酒をやめる。当初は自宅を事務所とした。複式簿記を自分で行うことで多少の会計知識を得る。

auの携帯電話向けに BREW (QualcommのモバイルアプリケーションAPI)アプリ開発などを受託で行う。ネイティブプラットフォームであるBREWは品質の低いプログラムが端末にダメージを与えてしまいがちであるため KDDIによりそこそこ厳しい審査が行われるのだが、初回提出での審査通過は非常に珍しいらしく通算 2例目の座を獲得する。しかし、あんなささやかな受託金額(しかも孫請け)で似たような条件の厳しい仕事を今もやるかと言われれば断じてNOである。お断りします。おーこーとーわーりーでーす!

2005年頃

自宅兼事務所をやめ、東京都神田小川町に事務所を開設。有り難いことに各所から続々と祝いの観葉植物が届いたのだが、あっという間に全て枯れたのは一体どういう未来を示唆しているのか、ということについては考えないことにした。

当初は自宅と事務所の家賃を両方支払えるかどうか不安ではあったものの、事業にかけているコストに収入はおのずと見合って来るものだということを後に理解する。明らかな無駄遣いでなければの話だが。

この頃 iBook G4を買って Mac OS Xユーザーになったようであると記録はいう。Macを買ったので iPodも買うという、世間一般とは180度方向の違うハローエフェクトがかかる。

愛車 HONDA ジャイロキャノピー ミニカー化改造済み。GPS搭載。トランクの中で各種ガジェットを充電出来るようになっており移動要塞の異名を取る。

2007年頃

ひょんなことから2ch(元)管理人ひろゆき氏に会う。議題がめんどくさい方向に向かい出すとドラスティックに軌道補正をかけて近道へ戻しにくる、頭のいい人という印象。ネット上で垣間見える彼の人となりから想像するに、多分早く切り上げてゲームをやりたかったんだと思うけど。

ちなみに、氏と話したことがあるのはこの時だけなので先方は自分の事を覚えてもいないだろうし、「ひろゆきと知り合いなんだよね〜」などと意識高い系の連中の妄想みたいな事を言う気も毛頭ない。

2008年頃

縁あって初めてインドへ。その後往訪を繰り返し、普通の日本人と同じ英語力(つまり全く話せない)から、普通の日本人よりマシな英語力(つまりおおよそ話せない)にレベルアップする。ただ、その程度でも普通の日本人から見れば英語を話せてるように見えるらしい。まあ確かに意思疎通は出来ているが・・・。

事業拡大の意図が全く無いにもかかわらず事業を法人化。日本の税法では年商が1000万円を越えると個人事業だろうが法人だろうが消費税を納税しなければならないことになっているので、個人事業を廃業して法人を新設することでその条件を一旦リセットした。

法人化すると会社と個人の資産は分けなければならないので、自分の給料をいくらにするか決める必要がある。スティーブ・ジョブズのように 1ドルにしたかったが、残念ながら彼と違ってそれだと生きていけないので年俸を100万円(日本の税法において、個人が所得税を納めなくて良い年収のおよそ上限)に設定し、現在に至る。(その際の議事録)

経営をしたことがない人は、年収100万円なのにどうやって Macや iPhone買うねん、と思うかもしれないが、それらは個人の持ち物では無く業務に必要な会社の備品であるから、個人の年収とは無関係である。

2009年

香港から SIM Unlockedな iPhone 3GSを調達し、ようやく iPhoneユーザーになる。それまでは Windows Mobileを使っていた。テザリング可能な iPhoneを手に入れたことにより自分の中でモバイル環境は「完成」してしまったため、世間の潮流に逆行しガジェット熱は急速に冷めることになる。

自社内用と客先設置用に、whitebaseというコードネームで Xen用に特化された独自UIつきのサーバ専用OSを開発し始める。

2010年

whitebaseの正式名称を Walbrixとし公開。(そのあたりのいきさつ

全文検索エンジン groongaを使用した Webサイトの開発を始め、いくつかバグを踏んでレポートするなど小さな貢献をする。過去に Sennaを使った案件の時に開発者の方にお会いした事があったのを(自分程度の開発者なんか他にいくらでもいるのに)覚えていて頂いて、後に献本まで頂くという光栄にあずかる。きちんと自己紹介もしなかったのに事務所の住所まで調べて送って頂いたのは恐縮の限り。

2011年 ITエンジニアなどというものは所詮十把一絡げのドブサライ扱いであると達観し、受ける仕事を厳選する傾向が強くなる。歳を取ったともいう。プログラマ35歳定年説というのは、だいたい35歳頃でそれに気付いてしまうことではないか。少なくとも日本では。
2012年

日本にいないことも多いため都内の高い家賃は無駄という判断から、オフィスはそのままにプライベートの住所を都内から近隣県へ転出、自称ホームレスとなる。年収100万円によりふさわしい身分になったとも言える。

転居の際、ついでに個人用のクレジットカードも1枚を残して全て解約したのだが、現在の年収では新しいカードが作れないことに後で気付き、もう1枚くらい残しておくべきだったと激しく後悔する。

ある日 お名前.comを訪れたら、walbrix.comドメインが売り出し中だけど要らんかねと言われた(walbrix.netは取得済みだったのだが comは既に取られていた)ので購入。ここから社名変更へと急に事が傾く。10月より新社名となり、stbbsと決別

2013年 縁あって初めてアメリカへ。カリフォルニア州、シリコンバレーはマウンテンビューに1ヶ月半ほど暮らす。(shuさんの記事にその時の写真が載ってます)

黒歴史は刻まれ続ける

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